アンチェインな生活(海外生活回想録)
はじめまして。ノビーとブログを協同で運営するこになったムーネと申します。
よろしくお願いいたします。アンチェインな生活に憧れ日々奮闘してますが、世の中甘くはないですよね〜。現実的には鎖に繋がれた状態です。
仕事、お金、人間関係。まあ〜色々とございますが、少しでもアンチェインな生活が送れるよう試行錯誤していきたいなと思います。
そんな私でも、若かりし頃、アンチェインな日々を過ごしていた時期がありました。
もう25年以上前のことになります。
音響関係の専門学校を卒業した私は、就職はせず、非常に強い憧れを持って、海外をめざしていました。かといって英語が話せたわけではなく。(中学英語レベルも怪しい?)
ただただ行きたい❗行けばなんとかなるだろ❗と思っておりました。
当時、レゲエやDUBミュージックに、はまっていた私は、"こんなぶっ飛んだ音をつくれるDUBエンジニアになりて〜な"という想いを心の中に常に抱いていました。
海外留学などするお金も語学力もなかった私は、どのようにすれば海外で生活できるか、日々迷っていました。
そんな、もどかしい日々を過ごしていましたが、ついに見つけてしまったのです‼
ワーキングホリデーというすばらしい制度を。
ざっくりと説明しますと、ワーキングホリデーとは1年間という期間限定で
観光、学び、働く、ができちゃうんです❗
さっそく、私は準備にとりかかりました。
まず、どこへ行くか。当時はカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、3ヶ国のの中から選ぶことができました。
今はなんと❗なっ、なんですと?
フランス?
アルゼンチン〜?
ド、ド、ドイツ?
スペイン?
エ、エゲレス?
サッカー留学できるじゃねえか❗
その他、合計20ヶ国の国の中から選択できるみたいです。(マジに凄いんですけど❗)
当時の私は少ない選択肢の中から、迷わずカナダを選びました。なぜかと言うと、憧れのUSAと近かったからです。
(USA❗USA❗USA❗)
それに文化的にも似てますしね。(フランス語圏のケベック州は除きますけど)
行き先をカナダに決めた私は、いてもたってもいられなくなり。さっそくワーキングホリデービサの申請にとりかかりました。
パスポートを作りに行き。
カナダ大使館にビザを申請しに行き。
英会話の本も買ったし。
地球の歩き方、カナダ編も買った。
待てよ?何か足りんな〜
そうだ❗住む場所どうする?
ホテル住まいは高くつぞ❗
カナダで路頭に迷い野宿だけはごめんだ❗
そんなこんなで、私はホームステイを斡旋してもらうことにしました。
ホストファミリーはブロンドヘア―のカワイイ娘、ファンキーな音楽好きの息子、町一番のおいしいクッキーを焼くお母さん、ハーレーを乗りこなすフランクなオヤジがいいな〜と妄想し、決まるのを待ちました。
しばらくして、1通の封筒が私のもとへ届きました。ホストファミリーが決まりましたという封筒でした。
期待と不安を胸に、封筒を開けると、
一枚の写真と1通の手紙が入ってました。
写真の中の東洋人夫婦は、私に優しく微笑んでいました。
手紙には自己紹介と、あなたに会うのを楽しみにしていると、つづってありました。
そうです❗そうなんです❗私のホストファミリーはシンガポールがら移住してきたシンガポール系カナディアンだったんです❗
妄想とあまりにかけ離れた現実に、落胆
の色を隠せない自分がいました。
お〜ブロンドのカワイイ人よ〜
息子よ〜そのアフロとってもファンキーだぜ〜
お母さん、おいしいクッキーをどうか私に一枚ください。
お父さん、私をハーレーに乗せて、どこかに連れてって❗
ふ〜。
しかし私はその時とんでもない当たりクジを引いていたのでした。
当時のバカ野郎な私には知るよしもありませんでした。
すべての準備ができた私は、バックパック、スーツケース片手に。
現金少々、トラベラーズチェック(あわせて計100万円)を持ち、成田空港に立っていました。
期待と不安で胸が熱くなっていました。
1年間は食べれないと思い最後にと、ちらし寿司を食べました(カナダで飽きるほどたべましたけど)。
成田発、アメリカ、ダラス経由でとうとう私はカナダのトロントへ旅立ちました。
アンチェインな生活 海外生活編これからもよろしくお願いします。私が経験した
楽しい経験。素晴らし出会いを面白おかしく書いていきたいと思います。次回をお楽しみに。